2026年10月4日聖霊降臨後19主日(特22)
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| 「聖パウロ」ラヴェンナ大聖堂、ミラノ、6世紀. |
結婚生活で私は妻に忠実であってきたと思います。しかし思い返すと私が忠実であれたのは、先に彼女が忠実でいてくれたからだと感じる時があります。私が信じる前から、彼女が私を信じてくれた、と。
同様に、キリストは、私達がキリストを信じる前から、私たちを信じ、私達に忠実であられます。それがフィリピ3:9の聖書協会共同訳「キリストの真実(ピスティス、忠実、誠実、忠誠)」の意味です。
一方で、新共同訳では「キリストへの信仰による義」というように「信仰義認」の意味で訳していました。主語は人間です。行いではなく、信じることであなたは神さまに義しいと認められる。救われる、と。
しかし「主よ、あなたを信じます」と言った瞬間に戸惑いが生じます。強く敬虔な信仰を持つ人だけが救われるのではないか。「私みたいな弱くて曖昧な信仰」では「義」とされないのではないか。信仰は一種の行いなのではないか、と。
他方、聖書協会共同訳では「キリストの真実、忠実」です。主語はキリストです。神の本質は忠実です。神は私たちが不忠実であっても忠実を尽くし、私たちが忠実な民になるように恵みを働かれます。
その方法が人となった神、イエスさまです。イエスさまはアブラハムの子、イスラエルの民の象徴として神に忠実になり、自らを注ぎ出して空になり、民の苦しみを十字架に至るまで背負い、復活・昇天しました。そして新しい命を始めました。
このお方と一つになることで、私達は神に忠実な民、忠実な人間に変わります。神であり人間であるイエスさまの内に、神は私達人間に忠実であり、私達人間を神に忠実な民に変えてしまうのです。
私たちの信仰は神の忠実の結果です。親鸞が「他力といふは如来の本願なり」と言った事に近い、神が先に働いて自分が神を信じるようになる神秘です。神の忠実が人間の忠実を呼ぶのです。パウロの言葉では「自分はキリスト・イエスによって捕らえられている」です。向こう側から働いてくださる喜びこそが、人間的な誇りをすべて「屑」と感じさせる、パウロの喜びです。
聖餐で最後の晩餐を想います。弟子らが自分を裏切る前にイエスさまは先に「罪の赦し」の杯を定めました。信じ切れず不忠実な私たちを知り尽くしたうえで、それでも忠実を尽くして、私達を変えようとされます。杯にみ声を聞きましよう。
「信じられなくてもいい、忠実でなかったとしてもいい、私はあなたを信じる。忠実を尽くす。だから大丈夫だ。私と一緒に、日常の中で、神への忠実を生きていこう。」

