2026年10月11日聖霊降臨後20主日(特23)
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| ディルク・ファン・サントフォールト.「ふとどき者の家来の譬え」 |
青年の頃、破れたジーパンを履いてサーバーをしようとして叱られました。「聖餐式に仕える意識がない。ズボンを靴下に入れて隠しなさい。」場にふさわしい服を着るのが大人です。
今日の譬えの前半は分かりやすいものです。王は神、王子はイエス、家来は預言者、招待客はイスラエルの指導者、新しく招かれた人々が新しいイスラエルである私たち教会です。王は婚宴を王子のために開きます。家来を遣わして招待客を呼びますが来ません。そこでまた家来を送って招きますが、無視したり、畑に行ったり、商売に出かけます。他の家来は殺してしまいます。そこで王は街を焼き払います。そして四つ辻から「善人も悪人も」招待したので、婚宴は一杯になった。王の顔は喜びで一杯です。罪人を招いた主イエスの姿です。
しかしマタイ福音書では恐ろしい後半部分が加えられています。王が婚宴を調べます。すると礼服を着ずにご馳走を食らっている奴が一人いる。この不届き者に王は「友よ」と愛を込めつつ、しかし「どうして礼服を着ないのか」と問います。男は言い訳ができず黙っています。すると王は怒って手足を縛って外の暗闇に放り出させます。泣き喚きと歯軋りの暗闇へです。
四つ辻で呼ばれたのに礼服を着る時間はないと思いますが、それは前半の物語。後半の物語では他の皆は礼服を着ているので言い訳にはなりません。礼服とは何か。
前半では、律法遵守を誇る指導者でなくても、悪人も含む全ての人が招かれます。悪人でさえ信じれば認められる「信仰義認」です。しかし後半では信仰だけでは救われず、行いが必要。それは25章の飢え渇く人、よそ者、裸の人、病気の人、に対する慈しみの行いです。つまり信じて祈るだけで、慈しみを実際に行わない指導者、また私たちをも強烈に批判しているのです。
聖大グレゴリウスは教えました。神を愛する縦糸と、人を慈しむ横糸で礼服を織り上げ、それを着て婚宴へ来いと。小さな日常生活でしんどい人を慈しむとき、私たちは慈しみの礼服を着ます。キリストを着ます。キリストが私たちの体を使って人を慈しみます。そうして私達は変えられ、慈しみの宴会へ行き、神さまの慈しみを喜ぶのです。
イエスさまの声を聞こう。「神を愛し、自分を慈しみ、人を慈しみ、神の宴に行こう。慈しみの場にふさわしい慈しみの礼服を着て、私を着て、父の慈しみを祝おう。」

