2026年7月5日聖霊降臨後第6主日(特9)聖餐式
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| George Arthur Hays. 「耕す牛」1900年, |
イエスさまは安息をお与えになる方です。「すべて重荷を負っているものは私のもとに来なさい、休ませてあげよう。」(11:28)
この「重荷」はユダヤ教が民衆に課した律法主義の重荷です。私たちの重荷は何でしょうか。人間関係、理不尽、病気や怪我、愛する人の死、貧困、孤独、教会活動でさえ心の重荷となることがあります。
それがどんな苦しみでもイエスさまは必ず安息を与えられます。しかしそれは重荷を取り除くことではありません。自分の人生の重荷を負い遂げるために、さらにその上に「私の軛を負い、私に学びなさい」。(29) それは師の弟子として師の生き方に倣い、歩むことです。「あなたの言葉は私の足の灯火、私の道の光」と。(詩119:105)
師の軛はザカリヤ預言にある「へりくだって子ろばに乗ってやってくる王」の生き方です。(主のエルサレム入場の姿) それは戦車や軍馬や弓が示す力ではなく、貧しく無力で、しかし絶対的に神の憐れみに頼る平和の王の姿です。十字架の王です。だから「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」のです。神の憐れみに頼るからです。
福音書では「幼子」と表現されます。自分の財産や力や知恵ではなく、全てを親に頼って過ごす素直で平安で「軽い」生き方です。
そしてイエスさまが絶対的に頼るのが「父」と呼ぶ神です。25-6節には本当に親密に呼び合っている父と子の関係が表されています。この親密な関係に、憐れみの軛を負う人も入れてもらえるのです。
幼子のように父の憐れみに頼って生きる。それが「柔和で心のへりくだった者」です。(11:29) へりくだりとは自己卑下でも偽りの謙遜でもありません。自分の力ではなく絶対的に父の力に頼ることです。そして父はご自分を頼る低められた人々を憐れみ、助けるのです。
イエスさまは憐れみの軛によって、全ての人の罪の重荷を十字架の救いまで引いて行かれました。このとてつもなく重荷は、父の憐れみに頼ることで、人間の限界を超え、軽くなったのです。そして父は憐れみの力で御子を復活させ、聖霊を降し、魂の安息を始められました。
先日、重い病気を患う友人に聞かれました。「どうして私が病気になったのですか。」どんな聖句もその場しのぎです。「どうして」の歎きは、解決せずに、そのまま父に向けるべきです。そうすればイエスさまが共に歎き、共に「憐れみの軛」を背負い、父の憐れみに頼り、安息を与えてくれるのだと信じます。
主の声を聞こう。「共に憐れみの軛を負い、父の憐れみに頼ろう。」

