2026年5月3日 復活節第5主日 聖餐式
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| アンドレイ・ルブリョフ「父祖アブラハムの懐」15世紀. 生神女就寝大聖堂 (モスクワ). |
「ねぇ、神様の所へ行ってしまうの?」50代でご主人を亡くされた奥様はこう尋ねたそうです。そして「うん」と言われて泣いたと。死に面する時、天は遠く感じられます。
またある高校生も問いました。「天とは何ですか。遠く感じます。」
弟子たちにも天は遠く感じられました。最後の晩餐で、主が死んで復活して天の父へ昇ることを主が予告したとき、ペトロは悲しみました。「どこへ行かれるのですか。」
主は答えました。「心を騒がせてはならない」。死の力を恐れてはならない。「天の父の家に居場所を用意する。そうしたらもう一度帰ってきてあなたを迎える」(14:1,3)。肉体的にではなく霊的に、聖霊を通して帰って来て、天に迎えると。そして不思議にも「その道をあなたたちは知っている」と。
そこでトマスは直ぐに問います。「行く先が分からないのに、その道なんて分かりません」(5)目的地の天が遠くて分からないのに、その手段の道などもっと分からない、と。
ここで主は宣言します。「私が道であり、真理であり、命である」。「道を教えるから、あとは自分で歩め」ではありません。主イエスご自身が道です。一体になって共に歩んで下さるのです。主ご自身との人格的な関係を持つこと、つまり祈りの内に主と私が「あなたと私」でいる関係、それが道だと。
初代のキリスト者は「この道の者」(使9:2)と呼ばれました。人生が苦しくても、主と共に生きる人は、天を地で生きているのです。
そしてこの道は既に「真理であり、命」です。天です。道は目的地(真理、命、天)への手段ではなく、道そのものが目的地です。イエスさまご自身が天だからです。「私を見た者は父を見た」(9) 父なる神とイエスさまは一体です。天はこの世的な場所ではあらず、イエスさまという「お方」そのご人格そのものです。主と祈りで結ばれるとき、私たちは既に天にいるのです。今ここの近さで、霊的に天にいるのです。
天とはイエスさまご自身です。(アブラハムの懐の様に)死んだあの人はイエスさまの懐にいます。だから私たちがイエスさまとの関係に入る時、あの人と交わるのです。
聖書と聖餐であなたを求める主の声を聞こう。「私と共に生きよう。私こそがあなたの道、あなたの真理、あなたの命、あなたの天だ。」

