2025年10月5日 聖霊降臨後第17主日(特定22)
ひどい譬えです。一日働いた奴隷に主人は感謝もせず、夕食での給仕を命じます。そして奴隷はこう言いうべきだと。「私どもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしたにすぎません。」感謝を期待せず、主人に仕えて生きていきなさいと。
この譬えで女性を無口な「主婦」にしてはなりません。「感謝くらいしてもいいのに」とも思います。
しかしこの譬えは「自分がしたことは感謝されて当たり前だ」という傲慢を戒めます。そして主に結ばれて主と一緒に働くことで「感謝されたい」という束縛から自由になりなさい、という勧めです。
私たちは感謝されたり評価されたりすると自然と嬉しいものです。あぁ頑張って動いてよかったと思います。そして人からの感謝と評価の内に神さまからの恵みも感じます。
だからこそ逆に感謝も評価もされないと「それでもいい」と分かっていてもガッカリします。腹が立ち、嫌にもなります。特に思い入れの深い教会では。(私なら、説教の反応の良し悪しに一喜一憂すること)
でもそれは傲慢だよ、とイエスさまは言うのです。主人はあなたではなく、私。あなたは私に従う弟子、私が遣わした者、私の道具。そりゃ感謝や評価や見返りがあれば嬉しいけど、感謝されなくてもあなたは私と結ばれていた。一緒に働いた。十分嬉しいことじゃないか。
人からの感謝と評価を求め過ぎると逆に人に縛られます。だから感謝と評価への執着を捨て、ただ主に結ばれて、主に忠実に生きれば、私たちは解放され、自由に、あっさりと、潔く生きられるのです。
イエスさまは「主の僕」として、人から感謝と評価ではなく、裏切りと排斥を受けました。ただ父と結ばれ、父に忠実に生き、苦しみを受けて解放を実現されました。
もっと言えばイエスさまこそ、私たちから感謝されずとも、ずっと私たちを愛してきてくださいました。ご自分の命を与えるほどにです。感謝を期待せず、神に結ばれて行う働きは、無条件の愛となるのです。
それは誰にも見せない小さな愛です。親の介護、家族の看病、家事、同僚への親切、傾聴、友情、信徒同士の慰め、教会の当番…。
感謝などあてにせず、自由に主と共にこの世で働くなら、神の国で主は言われます。「ありがとう、よくやった、一緒に働けて嬉しかった!」