2025年9月28日 聖霊降臨後第16主日(特定21)
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| レアンドロ・バッサーノ.1595.ダイビスとラザロ、個人蔵. |
画面の向こうのガザでは、大勢の男が銃撃にさらされながら食料配給所に押し寄せています。私でも同じようにするでしょう。家族が飢えているのです。そしてその中に十代に見える子がいました。彼の内に私は息子を見た気がしました。親思いの息子は、ガザにいたらきっと家族のために命がけで配給所へいくだろうと思ったからです。
今週もルカ福音書の神は貧しい人の内から私たちを見つめます。
ある金持ちが豪邸に住み、高価な紫染めの麻服に身を包み、毎日宴会を開いて財力を見せびらかせていました。他方でラザロはその門前で、足が不自由で横たわり、できもだらけで苦しみ、腹を空かせ、金持ちの残飯を待っていました。犬が来てできものをなめていました。
しかし死が訪れ状況が逆転します。ラザロは天使によって、神の宴席にいる信仰の父アブラハムの懐に上げられます。ですが丁重に葬られたはずの金持ちは、炎で苦しむ陰府で目を開け、遠くのラザロを見上げるのです。「お前は良いものを、ラザロは悪いものを受けた。だから今は逆なのだ。」
金持ちはそこでもラザロを下に見て「ラザロをよこして水で舌を冷やさせて下さい。」と願います。
ここで発覚します。金持ちは門前のラザロを知っていたのだと。毎日門を出入りするとき、当然、ラザロを見ていたのです。しかし「慈しみの目で」見ようとしませんでした。
そしてまだラザロを下に見て今度は「兄弟のもとに遣わして警告して下さい」と願います。しかし「聖書の慈しみの教えに聞き入ろうとしないなら、誰が復活しても聞き入れないだろう」。たとえラザロが復活しても、イエスさまが復活して語りかけても、「慈しみの耳」で聞こうとしないなら聞こえないのです。
イエスさまはラザロの内にいます。ガザで飢える人々の内にいます。貧しい人、心の貧しい人、苦しむ家族の内にいます。十字架で苦しむ姿で、その人の内にいます。慈しみの目と耳を開けば、復活して苦しむ人の内におられるイエスさまを見て、聞くことができるのです。
私にはそれができるとは言えません。だから聖餐で目を凝らし、聖書に耳を澄まし、慈しみの目と耳を開いて頂きます。人となって私と一体になられた神に開いて頂きます。
「慈しみの目と耳で私を見て、私に聞きなさい。そして私を助けてくれ。あなたの周りの人々の内で。」

