「コスパ」とよく言います。「私の宗教は先生の教会より献金額が少ない」と言われたこともあります。コスパのよい宗教だ、と。
それに比べてイエスさまが要求される弟子のコスト、いわば「幸せのコスパ」はとても悪いです。それは①家族、②命、そして③財産だとここで言われます。(14:26~)キリスト信仰はコスパが悪いのです。客寄せの100円たこ焼きとは違い、命が要求されるのですから。
それはまるで大きな塔を建てるために「腰を据えて」費用計算をするのに似ている、とイエスさまは言われます。莫大なコストを正しく予算立てして、支払う決断がなければ工事は途中で中止になり、笑いものになる。幸せに到達する前に、道が途切れる、と。
なぜこんなにコスパが悪いのか。それは新しい契約で結ばれる相手が高いコストを支払われたからです。(結婚でもお互いが人生をかけて結ばれます。)つまり幸せ(赦しと解放)のためにイエスさまが、家族、財産、そしてご自分の命を支払われたからです。(聖歌506「主は命を」)だから、感謝の内に、犠牲が要求されるのです。
祈りとは「腰を据えて」熟慮と決断をする時間です。日常の浅はかなコスパ計算から離れ、自分の心のなかに入リ、イエスさまと親密に語り合い、大損してもいい、自分を献げる決断をする時間です。
皆さまはいつ「腰を据えて」決断してきましたか。結婚、仕事、子どもの教育、引っ越し、教会活動・・・。
私には、イエスさまを受け容れた22歳の夕立ちでした。強い雨の中で「イエスさま」と初めて祈り「私の悪いものと、あなたの良いものを交換して下さるのなら、それで人生が変わっても、それでいいです」。コストは高くてもいい、と。
イエスさまご自身、荒れ野で、早朝に、ゲッセマネで、腰を据えて祈り、自らの命を支払う決心をしていかれました。だからあなたが高いコストを払うべき人生の大切な時に、すぐ隣にいてくださいます。 そして最期の日、命のコストを払って神の国に入ろうとするとき、すぐ隣で一緒にコストを払ってくださいます。
「腰を据えて、幸せのコスト、自分自身を支払う決心をしよう。そして新しい契約で私と結ばれて、喜び祝おう、高価な高価な幸せを。