2026年3月29日 棕櫚主日(受難物語朗読)
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| Mihály Munkácsy. Ecce Homo! 1896. デーリ美術館 ハンガリー. |
復活したイエスさまに出会った弟子たちは「あぁ、ではあの苦しみは私たちの罪を受け、赦すためだったのか。だから杯を赦しの血と言われたのか」と悟りました。受難物語を聴くとき私たちは自分の罪を主が受けて赦したことを体験します。
罪とはアダムが犯す神への裏切りです。神の愛に忠実でいない、いられない罪です。その全てを主は受け苦しみます。
ユダの罪、それは愛した人を自分の判断で悪とし、裏切り、敵に売り渡してしまった罪。
ペトロの罪、それはどれだけ心で愛を誓っても、自分の身が危うくなれば、3度も「知らない」と裏切ってしまった罪。
ヤコブとヨハネらの罪は、愛する人が最も苦しくて「祈ってくれ」と願われても、体の弱さゆえに祈らなくなった罪です。
他の弟子たちも皆、主を見捨てて逃げました。以前はどれだけ愛して従っていても、危険を前に見捨ててしまう、罪です。
祭司長たちはイエスの死を求めました。自分たちを審く神は不都合です。神を亡き者にし、成り代わろうとする罪です。
総督ピラトは無実と知りつつも神を有罪にします。勇気を出して真理を告白できません。
そして盗賊バラバを選び、イエスさまを「十字架につけろ」と叫ぶ群衆は、その一人一人が神を不要とする罪です。
イエスさまを殴り、鞭打ち、棒で叩く兵士たちは、私たちの心に潜む暴力性を表します。
主を侮辱し罵る人々は神を馬鹿にする罪の表れです。
そして人類の罪の全てを受け、それを赦すためイエスさまは「神よ、なぜ私を見捨て他のか」と絶望して死なれました。
そして復活してご自分が受けた全ての罪を帳消しにし、相殺し、白紙にし、やり直しの人生を与えるのです。何度でも。
受難物語に自分の罪の赦しを聞きとりましょう。「お前の罪は私が受けたから、赦された。」

