2026年3月22日大斎節第5主日 聖餐式
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| 「私は死ぬほどに苦しい」(マタイ26:38) James Tissot. Brooklyn Museum. |
「怒り泣き」をしたことがありますか? 私は、母が60代で末期ガンと宣告されて車で会いに行く途中、ハンドルを握りながら泣きました。「神様、なんで、うちのお母さんなんや!」皆さまも病や死の不条理に対して憤ったことがあるでしょう。
今週もイエスさまを信じるに至る物語です。ベタニアの村にイエスさまの愛するマルタ、マリア、ラザロの兄妹がいました。ある日ラザロが病気になり主を呼びましたが「信じるようになるため」と来てもらえず、死んでしまいました。
イエスさまが到着した時マルタは主を責めました。「もっと早く来たら死なずに済んだのに!」そこで主は真理を告げます。「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。」マルタは不完全ですが「信じます」と告白します。
家に入ると今度はマリアが主を責め、皆と泣いています。「ラザロは?」と聞くと「来て、見なさい」と墓を示されます。ここで「イエスは涙を流された」とあります。
この涙は、聖書的には、同情や共感ではありません。その前後でイエスさまは「憤りを覚え、心を騒がせて」いるからです。いわば「怒り泣き」です。この憤りは死の力と不信仰に面して怒り、動揺し、戦う心です。「なぜ死の力はこんなに強く、悲しませ、泣かせ、復活である私を信じる邪魔をするのか。」
「心を騒がせる」はご自分の死と結びついています。主は同じ言葉で死を前にした動揺を表しています。(ヨハ14:1)また主の涙は死の前で祈る涙です(ヘブ5:7)つまりここで主は、死に怒り、死に打ち勝つための十字架を、心おののきつつ選び取っておられるのです。
そして主イエスはラザロを蘇生させ、人々はイエスさまを信じはじめました。そして主の復活後ラザロは死に対する勝利、復活の「しるし」となり、信仰は完成するのです。
主は死に対して怒り、心を騒がせつつも十字架を選び取りましした。そして復活の命を始めました。
だから私たちも愛する人の死に対して「正しく憤り」ましょう。死を拒絶するのではなく、現実を受け容れつつ、それでも死に勝つ命を信じましょう。それでも死は最後ではない!、と主と共に憤りましょう。
葬送式は復活日礼拝のように宣言します。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか!」(1コリ15:55)。
「私たちには憤り、心を騒がして死に勝った、主イエスさまがいる!」

