2026年2月1日顕現節第4主日
誰かと一緒に道を歩こうとするとき、自分勝手ではできません。相手の歩幅を見て合わせなければなりません。相手もまた同じです。心を合わす必要があります。夫婦喧嘩のあとに駅まで道を一緒に歩くのは至難のわざです。
ミカ書6・8は神との生き方を1節で表します。主が求めるのは「公正を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと。」へりくだりとは、物静かで控えめとか、うわべだけの優しい物言いとか、上座を譲るとかいうことではなく、自分の神と共に歩むことです。自分を中心にして生活するのではなく、神と心を合わせ、神中心に生活することです。
この言葉はBC7世紀のミカの宗教批判から出る言葉です。神殿で牛や羊を献げるのに、行動が伴っていないと。力ある者は貧しい人をその土地から追い出して奪い、子どもを連れ去り売り飛ばし、不正な升や天秤や賄賂で金を儲けている。そんな状況を神の法廷で預言者は訴え、嘆き、正しい道に呼び戻すのです。「もう一度一緒に歩こう」。
この預言をイエスさまは山上の垂訓で告げました。「柔和な人々」は新しい訳では「へりくだった人」です。それは今ここにいる神に気づき、自分を横に置き、弱い立場の人を慈しむ、神の歩幅に自分を合わすことです。
主イエスさまにとってそれはゲッセマネでの「み心のままに」であり、「へりくだって死に至るまで従順」となる死でした。(フィリ2・8) 主が共に歩む父のみ心は私たちの罪と死と一体となることでした。そして自分勝手ではなく、父と共に歩むことで復活の命に満たされたのです。
へりくだった人は「地を受け継ぐ」。聖餐で「み国の世継ぎ」とされ、一人で歩くのではなく、主と共に歩み、公正と慈しみを愛しましょう。
「ちょっと待って ! 私と一緒に歩いていこう!」

