2026年1月11日 顕現後第1主日 主イエス洗礼の日
皆様の親御さんはどうだったでしょうか。
しんどい時に実家に帰ると「太一が帰ってきた!」と母はたこ焼きを作ってくれ、父は酒を飲みつつ一緒にいてくれます。社会で(教会で!?)どれだけ働けていてもいなくても、たとえ精神病院に入院してもしなくても、自分のことをかけがえのない存在として手放しで喜んでくれます。それが新たに働く原動力にもなります。
洗礼とは、かけがえのない子として神に手放しで喜ばれるしるしです。私たちの洗礼はイエスさまの洗礼に与かります。天の声がその喜びを表します。「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタ3:17)直訳では「私が喜びとする」です。
このイエスさまの洗礼と使命はBC540年頃の「バビロンのイザヤ」の喜びに与かるものです。「見よ、私が支える僕、私の心が喜びとする、私の選んだ者を。」(42:1)
当時、国は滅び、民は捕囚にあり、苦しみと絶望のなか、救い主の到来が預言されました。それは民の罰を代わりに苦しみ、民を捕囚から救い出す「苦難の僕」です。それは最終的には570年後のイエスさまでした。私たちの「病と痛み」を代わりに負い、私たちを罪と死の捕囚から解放しされたのです。
イエスさまは、苦しみを肩代わりするという使命を果たす前に、父に喜ばれました。「あなたは私の喜び!」これが受難を耐え抜く原動力となったのです。「私は父の喜び」。
そして自らが「かけがえのない喜び」とされた洗礼体験は、弱者をガサツに潰さず、丁寧に包む使命となります。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さず。」(42:3) 十字架で私たちの弱さを引き受け、私達を生き返せます。
かけがえのない喜び、それは私たちの周りの傷つき消えそうな人です。私たちは洗礼で、イエスさまと同じように父から「私の喜び!」と言われたのですから、同じように弱い人の存在を「神の子」として喜び、丁寧に包み、守り、救いましょう。それが「公正」です(42:3)。
洗礼を感謝しましょう。あの時そして今も、あなたは神の喜びです。そしてイエスさまの公正の働きに加わり、主と一体になりましょう。
ただし全ての働きの根源は、働く前に、働いた後に、または働けなくなった後も残る神さまの喜びです。
毎主日、神の喜びを確認しよう。「あなたは私の喜び! 」
