2025年8月24日 聖霊降臨後第11主日(特定16)
「磔刑」 フランス、1960年代、レジン製.(荒木が朝と晩に祈る机の前にかけています) |
ホラーのような譬えです。神の宴会への戸口はとても狭く、アスリートの様な訓練が必要。しかもその戸口が一度閉じられたら「私はご主人様と食卓を共にし、教えを聞ました」と言っても「どこの者か知らない」と追い払われるのです。
この譬えは「自分は由緒正しいユダヤ人だから神の国に必ず入る」と思い上がる者に対して語られました。確かにアブラハムなどの父祖は宴会に入っています。しかし東西南北の諸国から異邦人は入っているのに自分たちは入れません。
なぜか。それは弱々しい罪人として十字架で死ぬ人を、自分と一体となられた救い主として受け容れられないからです。「自分はそんなに弱くない、自分は正しい」または「自分はもっと強くあるべきだ、正しくあるべきだ」と思うとき、私たちは、主の十字架が示す、弱く間違った自分を受け容れられません。
ですがイエスさまは呼びかけます。「弱く間違ったあなたでも、私にとっては大切なかけがえのない存在だ。だから、私はあなたと一体になったんだよ」と語りかける十字架のイエスさまを拒むことになります。自分の弱さと間違いを認めず、十字架を拒めば、解放と赦しはありません。弱く間違った自分は永遠に赦されず、自分はダメなままです。
しかし十字架の内に自分の弱さを見るなら、それが神の宴会への戸口です。「力は弱さの中で完全に現れる」(1コリ12・9)。神の愛を知り自分を大切にできます。 パウロの回心も「弱さが受け容れられた体験」だったのだと思います。
皆さまの弱さの戸口は何でしょうか。私の今の弱さは自信のなさです。自分や人の理想に至らない自分の評価を自分で勝手に低めています。しかし朝晩祈るとき、弱さの戸口の向こう側から十字架のイエスさまが呼ばれます。「弱いままでいい。間違ったままでいい。私は共に居る。あなたは大切だ。だからあなたも自分を大切にしなさい」。
弱さを受け容れ、十字架のイエスさまの宴会に入りましょう。「罪の赦しを得させる」主の御血を飲み、自分を大切にしましょう。
「弱いままでいい。間違ったままでいい。あなたは大切だ。だから自分を大切にしなさい。大切にして、弱さの戸口から入ってきなさい。」