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グスタフ・クリムト「接吻」. 1907-1908. ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館. |
一か月半の入院から退院した日、お祝いに3人家族でピザを食べに行きました。回復と再会の喜びが溢れて、普段はそんなことしないのに、抱き合って肩を組んで商店街を歩きました。体で家族愛の交わりを感じました。「抱き合って喜ぶ」復活の朝もそうですし、クリムトの描く男女が抱き合ってキスすることもそうです。体は愛を感じる、愛を感じさせるために造られたのです。
イエスさまの肉体も同じです。イエスさまが昇天されたとき、聖書のイメージでは「体から魂が抜け出た」とはありません。体ごと天に昇られた、とあります。(使1:9)
上を向く祈りの姿勢は大切ですが、実際の「天」はオゾン層の上ではなく神の場所、神の次元、神の胸のことです。それはヨハネ17章では「父と子が互いの内にいる愛の交わり」です。イエスさまは肉体をもって今そこにいます。この天が地に来る、それが復活の時です。
神は私たちと同じ肉体を取られました。そしてその肉体で私たちの罪を引き受けて死に、新しい肉体に復活し、人間の肉体を天に運びました。それは私たちの肉体が、最終的には復活し、神さまと体ごと抱き合うためです。父と子と聖霊と抱き合い、肩を組むことです。それが「わたしのいる所に共におらせる」イエスさまの目的です。
天が来る復活の時、私たちの肉体は完全に癒されます。受け容れた自分らしさとしての病や障害はそのまま、全ての苦しみは消え、体ごと神の愛の交わりに入ります。
天が来る復活の時、それは既に始まっています。聖餐は天の写し絵です。聖餐で目に見えるパンを食するとき、目に見えない天上のイエスさまと抱き合っています。
そして地上の社会では、イエスさまと肩を組み、体で神の愛を示すように呼ばれています。「み子の体のえだ」です。(陪餐後)それは訪問、微笑み、優しい言葉、手紙、プレゼント、なんでもいいから私たちの肉体を愛に使う。そうすれば私たちを通して天が地に来て、復活の時が始まり、主が現れるのです。
陪餐で抱き締め、肩を組んでくれるイエスさまの声を聞きましょう。
「天上で私と抱き合ってほしい。体で愛を感じてほしい。地上では私と肩を組んでほしい。私の体のえだとなり、私の愛を伝えてほしい。」