2025年5月25日 復活節第6主日
Ernst Barlach : "Reading Monks III" (1932) |
死を理解できない小さい子には「お父(母)さんは、お星さまになったんだよ」と伝えます。死がすべての終わりではなく、大好きな人は、新しい形で共にいることを伝えようとします。
イエスの昇天は「その人間性が神の内に入る」という栄光ある祝福ですが、それが見えない弟子たちは別れの悲しみにありました。昇天してしまうと「ここにはいない」と不在を感じるのです。
2千年後の私たちも主の不在を感じます。どれだけイエスさまの話を聞いても、どれだけ「主は共にいる」と言い聞かせても「今ここにいるはいない。不在だ」と。
この不在感に対して主は「弁護者」を父がお遣わしになる、と予告されました。聖霊の別名です。法廷に立つ自分を助けてくれる弁護人のイメージです。その敵は「イエスさまはいない」という不在感です。
弁護者はイエスさまの存在を「思い起こさせ」、想起させ、その不在に対して私たちを弁護します。 (14・26)主が新しい形で共にいてくださる時代を聖霊が始めます。
聖霊が働いて主の存在を想起させるもの。それが聖書の言葉です。「イエスさまはこう言われた、こうされた、こう生きてこう死に、復活された」と弟子たちは語り継ぎ、それが聖書になりました。その後の世代も私たちも、聖書の言葉を祈り、愛唱聖句として覚え、読んでいく中で聖霊が働き、新しい形で共にいる主イエスさまの存在に触れます。
ただ、一人で聖書を読むのは困難です。だからこそ聖霊が働き「私はそこに現れる」と主が約束された聖餐に集まり、聖書に聴くのです。役に立つアイデアでも処世訓でもない「今ここでわたしはあなたと共にいる」と呼びかける主の声を、聖霊が聞かせてくれるのです。
イエスさまが「いないところ」と思うところで弁護者は働きます。
「わたしはあなたの弁護者だ。イエスさまがいないところに私は来て、新しい形、目に見えない形、霊的な形でイエスさまをあなたに感じさせる。そしてあなたを弁護する。不在感からあなたを護る。」
「そしてあなたの大好きなあの人も、イエスさまと一緒に、あなたに感じさせてあげるから。」