2025年5月4日 復活節第3主日
ペトロにとって炭火は裏切りの象徴でした。「あなたのためなら命を捨てます」とまで誓ったのに(13:37)、 イエスさまの予告通り、大祭司の中庭の暗闇で「炭火」に当たっているとき、先生の弟子だと言うことを三度も否定してしまいます。イエスさまの復活後もペトロには、赦されていない自分の裏切りのことがいつも頭にありました。
この未だ新しくされていない姿勢で、ペトロは復活以前の古い生活に戻りかけていました。「漁に行く」と。しかし闇の中でいくら足掻いても何も釣れません。疲労と絶望が入り混じって夜があけたとき、誰かの声が岸からします。「船の右側に網を打て。」カナの婚礼での召使のように、疑いつつもとにかく従ったとき、満ち溢れる大漁の奇跡が起こりました。そしてヨハネは悟りペトロに言いました。「主だ!」
それを聞いたペトロは、主のみ前に相応しくありたいと服を着て、しかし早く主の近くに行きたい一心で仲間を置いて飛び込みます。
そして岸に上がると、イエスさまは炭火を起こしてパンと魚の朝食を準備してくれていました。きっとイエスさまも、そしてペトロは当然、あの裏切りの炭火を思っていました。ペトロはとても悲しくなり、自分の弱さを痛感し、悔しがり、悲しみ、赦しを心から願ったでしょう。
すると主は何も咎めず、全てを赦し「さぁ、朝ご飯にしよう」と言いました。何も言わず、復活して今、目の前にいる。その存在が暗闇の炭火を朝日の炭火に、罪を赦しに、裏切りの涙を喜びの涙に変えます。復活は、罪の赦しによって何気ない日常の喜びを回復します。
私が福音を裏切ったとき、恩師はひと言戒めた後、それ以上は何も言わず、ただ黙って共に寿司を食べ、酒を飲んでくださいました。
ペトロの宣教は「炭火の宣教」です。上から下に信仰を押し付けるのではありません。弱さによって低められた自分が、復活の主に赦された喜びを伝える宣教です。こんな私と共に、弱いままで、赦しの炭火にあたりに行こう、と誘うのです。
聖餐。それは主が赦しの炭火で用意する食卓です。ここで復活の主は、黙ってあなたを赦されます。
「もう何も言わなくていい。さぁ、朝ご飯にしよう。」