2025年6月8日 聖霊降臨日
「それでもいいよね」
教会には、決して相手を否定しない人が多いと思います。相手を肯定して、安心させて「ここにいていい」と感じさせます。そんな努力の背後にはその人が受けているイエスさまの赦しが透けて見えます。
まず自分が「それでもいい」と神さまから赦されてはじめて、人を赦すことができます。肯定することができます。互いに赦しあい、日常生活で神の赦しを現す、赦しの教会になることができます。
逆に自分が心から赦されていないと、人の弱さと悪を赦せません。否定してしまいます。ギリシャ語で「赦す」とは「手放す」という意味で、赦さないとは「握りしめる」です。神さまに手放せないのです。
イエスさまは私たちが赦されるために、私たちの弱さと悪をその身に受けて殺されました。そして復活して神に赦された「御心にかなう新しい生涯」を与えられます。
それがヨハネ福音書による聖霊降臨です。イエスさまは自分の息を、ご自分が生きた赦しの精神を弟子たち、私たちに吹き込みます。イエスさまは私たちをご自分の代理とし、この世で人を赦し続けられます。「私が赦したように、あなたも赦しなさい」。私たちが赦せばその人は神の前で赦されます。大きな責任ですし、大きな喜びです。
ただし「どんな悪人でも赦せ」ではありません。赦しの条件は悔い改めです。だから悔い改めのない場合は「赦さないまま」にすベきです。そしてその違いを識別するのもまた、聖霊の働きです。
教会生活でイエスさまの赦しの霊が降臨するのが、罪の赦しが与えられる、洗礼と懺悔です。一生に一度、洗礼においてその人の罪の根源は赦されます。毎週の懺悔と赦しの祈りは、その洗礼の恵みの延長です。そこでこそ私たちは神から赦された新しい自分を受け取るのです。「弱さと悪は私が受けた。だから、あなたはそれでいい」と。
洗礼と懺悔に働く聖霊が私たちに、赦しの教会となるように呼びかけています。
「イエスさまはあなたを赦される。だから、ここにいていい。それでもいい。それでもいいよね。」