イエスさまとの関係にある自分 「わたしについて来たい者は自分を捨て…」ルカ9・23

2025/06/22

十字架 洗礼

2025年6月22日 聖霊降臨後第2主日(沖縄週間)

私たちは「自分、またはアイデンティティ」は自分だけによって成り立っていると普通は思っています。

しかし本当は「自分」というものは人間関係や役割によって変わってきます。私は信徒には(できの悪い)牧師であり、また妻には夫、子には親、親には子、聖職には同僚、親友には親友、野球部の仲間には仲間・・・。それぞれの関係が自分を成り立たせています。だからこそ一つの関係を失うと一つの自分を失い、価値と自信も失います。

イエスさまは弟子になるなら「自分を捨てて私について来い」と命じました。これは初期教会の殉教も意味しますが、現代の私たちにも自己否定は求められています。

ただしこの自己否定は苦痛のために苦痛を求める禁欲主義でも、お国のための「滅私奉公」でもありません。これは他のどんな関係にも先立って、まずイエスさまとの関係にから自分らしさ、アイデンティティを成り立たせなさい、ということです。牧師である前に、夫である前に、親である前に、私の弟子でありなさい。私との師弟関係だけが「あなたを自分らしくする」と。

そうすれば、たとえ他のすべての人間関係が上手くいかず、失敗して、拒絶されて「命」を失うともあなたは「それを救う」と。(24節)

イエスさまの自分らしさもまた父との関係から成り立っていました。洗礼がその始めです。自分に死んで父の愛を生き始めたのです。今日の箇所で「一人で祈っておられた」その内容は「十字架と復活で、人に命を与える」愛でした。 

逆説的ですが、他の関係を一度捨ててイエスさまとの関係だけに自分を成り立たせるとき、イエスさまの愛によってその人との関係も救われるのです。それが洗礼です。

 パウロは言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使16:31)

 「洗礼であなたは自分に死に、私との関係に成り立つようになった。弟子になった。その自分が、あなたの愛する人を救うんだよ。」

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聖公会京都教区の司祭です。大津聖マリア教会勤務です。うつ当事者として自助グループ「マ・カタリーナ」の世話人もしています。リンクをご覧ください。

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