2026年6月14日(特定6)(合同礼拝のために、大津聖マリア教会で礼拝はありません)
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| Crucifixion with the Virgin, Saints and Angels.Raphael.1502-3 |
良い牧師になりたいと願い、努力をしてきました。祈り、瞑想、聖書研究、傾聴と慰めと祈り。しかしその背後で隠れて「自分の行いに頼って」いる自分に気づきます。ただ神に愛されていることにではなく、良い働きができることに自分の価値がある、と考えている自分です。
しかしパウロはキリスト信仰の核心を突きます。「罪人のためにキリストが死んだ。それが神の愛だ」と。何の働きがなくても、いやそれどころか、神に敵対する罪人であったとしても、神は私たちのために死んでくれた。その愛を知れ、と。
罪人とは、その直前の節で「弱さ」また「不敬虔さ」と表されています。
パウロがいう「弱さ」(6節)は神の恵みを知らないという弱さです。「私の恵みはあなたに十分だ、弱い時にこそ強い」という神の強さを知らない弱さです(2コリ12)。自分の働きだけで価値のある存在になろうとする人間の弱さです。
「不敬虔さ」とは神と共に歩まない、神に祈りつつ生活しない態度です。祈りを忘れ、神など必要ないと、自らを神にして生きること。これは罪人や「敵」(5:10)と同じ状態です。
思い返せば、表面上は「聖職者」でも、弱く不敬虔に生活しているときがいかに多いことか。それに気づくとき、静かに絶望します。ああ、神の愛をなんと知らないことか、と。
そんな私にパウロの言葉は福音です。「絶望し、無価値に思えるあなたためにも神は死んでくださった。恵みに生かされようとも、神と共に歩もうともしないあなたのためにも、既に死んでくださった。何かの働きを誇ろうとする前に、あなたのために死んだ神の愛を受けよ、愛に浸されよ、愛に生かされよ」と。
2千年前の史実として神は既に私たち罪人のために死なれました。この愛に私たち一人一人は2千年後の今、主を信じることで入っていきます。日々入っていきます。
「あなたにとって自分は無価値でも、私にとってあなたは価値ある存在なんだ。死んでも良いほどに価値ある存在なんだ。」

