2026年6月21日聖霊降臨後第4主日(特7)聖餐式
「私は家族を敵対させるために来た」とイエスさまは言いました。ですがこれはカルトのように平和な家族を引き裂くことではありません。主は「平和があるように」と宣言する、平和の神です。家族内で信仰が違っても対立せず、ただ神を畏れて祈れば良いのです。
真意は歴史背景にあります。それは80年代の教会の迫害です。狼の中に羊を送り込むような危機の時代、復活したイエスを信じるクリスチャンたちはユダヤ教徒からもローマ帝国からも迫害され、殺される危険にありました。そして家族の中にも対立が生まれ、信じない者は信じる者を裏切り、当局に差し出すこともあったのでしょう。(国が暴力を振るうのは現代も同じ)
この暴力が横行する時代に主は真の「恐れ」を説きます。まず三度も「人を恐れるな」と励まします。(26,28,31)そして逆に「命も体もゲヘナ(地獄)で滅ぼすことのできる方を畏れよ、私への信仰を告白せよ」と命じます。(28,32)「人を恐れず、神を畏れよ」と。「畏れ」は怖い感情ではなく、何よりも神を優先して敬い、従うことです。
これは八代斌助主教が好んだ言葉です。たとえ迫害がなくなり、平和な時代と国に住んでいても、社会や家庭、または教会内にも権力や悪い力関係が働く時がある。そして人と対立し傷けることが起こります。夫婦の力関係、経済力、怒り「フキハラ」などの感情の武器、嫁姑の関係性、色んな立場の力関係、などを武器にして強い者が弱い者を傷つけることがあります。
しかしイエスの弟子はどんな強い者にもへつらわず、勇気を持って間違っていることには「間違っている」と声を上げ、とくに声の弱い人を大切にする道に呼ばれています。(京都事件の教訓)畏れるべきは審き主なる神だけだと。「人を恐れず、神を畏れよ」です。
イエス様の「剣」はまず自分と相手の関係に「メス」を入れ、自分を解放し、まず主に頼らせます。怖いかもしれません。命を失う十字架の道のように感じるかもしれません。雀のように、また髪の毛の一本のように自分が小さく弱く感じるかもしれません。しかし主は決して「地に落とす」ことはしないのです。
「恐れるな」。イエスさまは、最後まで人を恐れず父を畏れることで、父から強められ、私たちの罪を十字架まで背負われました。人を恐れていては、人を愛せません。
ご聖体の主の前に畏れ敬い跪くとき、審き主なるイエスさまの声を聞きましょう。「人を恐れず、共に父を畏れよう。それが本当に神と人を愛することになるんだ。」

