2024年9月15降臨後第17主日(特19)
ある父親の愛する息子がてんかんに苦しんでいます。それはまるで霊に取り憑かれているようです。地面に引き倒され、泡を吹き、歯ぎしりして硬直し、火や川に入って自殺しようとする程の苦しみです。
苦しむ息子を見て父親はどれだけ胸を痛めていたか。息子をイエスさまのもとに連れてきました。弟子たちが対応しますが、自分で治せると思い上がる「不信仰な」弟子達には癒すことができません。「この人たちではダメか。」
そして心に疑いを持ちつつイエスさまに直接「ダメもと」で願いました。「できれば、お助けください。」
そうするとイエスさまは一抹の疑いを見透かして、喝を入れました。「できれば、と言うか。信じる者には何でもできる。」そして父親は一瞬で悔い改めて叫びます。聖霊に突き動かされて言いました。「信じます、信仰のないわたしをお助けください!」「疑う自分をどうか変えてください!」この叫びを聞き入れてイエスさまは息子を癒されました。
イエスさまは誠実を求められます。否定的な部分に対しても、です。「信じられない、教会がつまらない、祈る気にならない、神さまが分からない、愛せない、罪を重ねている、誠実にさえなれない。」こんな思いを認めることは苦しいことですが、それを神の前で認めること、それが聖霊の働く懺悔の祈りです。この父親のように、まず肯定的に信じて、そして否定的な面も認めて、変えてもらうように願うのです。
私は毎週祈っています。「神さま、私はあなたを信じて、信徒の心に語りかけるあなたの言葉を語ります。しかし自分の中には、何も感じず、あなたを信じず、信徒の心に語り掛けようともしない自分もいます。どうか私を憐れみ、助けてください。私を変えてください。」
人は人の前で、神さまの前で、また自分自身の前で、誠実になることで変わっていきます。
最も誠実な人、それがイエスさまです。「神よ、なぜ私を見捨てたのか。」十字架上で不信仰への誠実を献げられました。それも自分だけの誠実ではなくて、私たち全人類の誠実を献げました。杯を飲みたくない思い、見放されたと絶望する思い。それを認めて捧げて、変えてください、と願いました。私たちはイエスさまのなかで、神さまにもっとも誠実になるのです。
そして復活のうちに、全く神に誠実で透明な存在に変わります。似姿になります。そうすると、人間は神さまの誠実を映し出し始めます。神さまの誠実、それは何があっても私たちを愛し続けてくれることです。私たちが最も誠実であるとき、神さま自身が誠実に愛そのものであるご自分を表してくださるのです。そして、その愛が誠実であろうとする私たちを変えてくださるのです。
思いと言葉と行いによって、と懺悔するとき、主の声を聴きましょう。「誠実になりなさい、私は必ずあなたを変えるから。」