師匠と弟子の心がこれほどまでに離れているとは・・・。
イエスさまはもう奇跡は行わず、ただ受難の道を進まれます。それなのに弟子達は師匠の思いを「分からず」、「誰が一番偉い(大きい)か」と言い合っています。「あの人は良い、この人は悪い」と言い合うのは当時も今、牧師仲間でも信徒仲間でも同じかもしれません。誰が誰に仕えるべきか。
それに対してイエスさまは「すべての人に仕える者になりなさい」と教えます。正直、イヤです。食事でも人間関係でも、仕えてもらうほうがいい。でも「仕えなさい」と。
ただしここで主は、仕えることを「偉くなるための善行」として命じているのではありません。弟子達の言い合いに逆戻りしてしまいす。「仕える」のは偉くなるためではなくて、あくまでも相手を愛するからです。人を愛するとき、私たちは自分の「偉大さ」や評価さえ捨てて、相手に仕えることができています。
イエスさまは「仕えるために多くの人の身代金として自分の命を献げる」と言って、十字架で命を与えられました。(マルコ10:45)神が私たちに仕えてくださるのです。
仕えるというのは、人を愛して自分を与えることです。物、体、労力、時間、空間、地位、プライド、そして最後には命をも与える。義務の範囲には収まらない愛です。
ドラマ「光る君へ」では乙丸という独り身の従者が出てきます。なぜ結婚しないのかと姫様に問われて答えます。「(殺された姫様の母である)北の方様がお亡くなりになったとき、私は何も・・・(できませんでした)。せめて姫様だけはお守りしようとお誓いしました。それだけで日々、精一杯でございます。」
人を愛して忠義を尽くし、自分を与え尽くす。なんと美しい生き方でしょうか。これは善行の義務ではなく、生き方の美しさです。
それをイエスさまは貴族や偉大な人にではなく、子供のように社会や教会で小さくされた者にしなさいと教えられました。「私は小さくされた者の中にいる」と。小さく裂かれるパンに主の声を聴きましょう。
「私の従者として、小さい者に仕え自分を与えなさい。神さまの従者として人に仕える生き方、それこそがあなたを美しくするのだから。