教会が退屈、、、と錯覚する瞬間がある。毎年同じ運営をする組織であるだけなら、教会も礼拝もつまらない所だ。
そう感じてしまうときは、もういちど自分と神の関係、つまり自分の霊性(スピリチュアリティ)と教会の意味を深く考えて、この少年イエスさまに帰るときだ。神殿から帰った少年イエスさまは「知恵にも背丈にも、神の喜びにおいても人の喜びにおいても、成長し続けた。」(ルカ1:52直訳) 伸びるのだ。
イエスさまの内に神と結ばれた私たちは、12歳の少年の様に、毎日ワクワクさせる、繊細で、しかしいつも新しい未知の領域へと伸び続ける。「去年も今年も、教会生活は何も変わらない」という寂しい信仰と霊性理解は、罪による錯覚だ。神は今もあなたに働きかけておられる。罪が神を拒むのだ。
だが神は人となり、少年となり「成長し続けた。」 それは神と結ばれたあなたの人間性が「恵みの上にさらに恵みを受けて」成長し続けるためだ。(ヨハネ1:17) 年齢を問わず、この世の命をも超え、永遠の命に至るまで成長し続ける。神の永遠性とは、変わらないことではなく、成長が永遠に続くことだ。
少年イエスは知恵において成長した。知恵は情報ではない。関係性の深まりだ。父との愛の深まりだ。だから「私は父の家にいる」と言われた。(ルカ2:49) それは夫婦や家族の関係性の様に深まり続ける。父の家、神殿であるこの教会で神は、私たちとの関係を日々深められる。それはいつも驚きに満ち、いつも新しく、いつも嬉しい愛の絆。愛する存在と過ごす時間は、一瞬たりとも退屈ではなく、喜びだ。
今年、神はもう一歩深く本当のあなたをご自身に結びつけられる。「心を開き、近づきなさい。わたしの喜びの子よ。」