パウロが批判したのは「どうせ偶像なんて嘘モノだから、偶像神殿での食事会に出てもいいじゃないか」と考えた「知識ある、強い」信徒。偶像崇拝から回心してきた「弱い」信徒がそれを見て躓くからだ。知識の自由で兄弟姉妹を躓せるな。知識より愛が肝心。知識は愛のためだと。
現代日本での偶像崇拝には寺や神社も含まれる。だが祈る心があるだけましだ。もっと酷いのが物質主義。祈る心を持たない、金銭と効率とレジャーを拝む文化だ。
この物質主義の偶像に対して、どう愛して守るのか。自分だけ「私は神を知っているから大丈夫」と知らんぷりして、大切な神の家族、または文字通り自分の家族を躓かせてはならない。その人のためにキリストは死なれた。その人の「弱い良心を傷つけて」再び「物質主義」の偶像崇拝へ傾けることは、キリストに罪を犯すことだ。(8:11-2)
神を知る知識は人を愛して造り上げて「なんぼのもん」だ。礼拝で神はあなたに宿り、あなたは愛の人になる。
物質主義に対して「人を愛して造り上げる」機会が毎日3回来る。食前の祈りだ。共に祈ろう。家族と祈ろう。兄妹と祈ろう。未信徒の前でも祈ろう。愛を込めて。どんな形でも良い。勇気を出して。手を合わせ、目を閉じ、十字を切り、無言で。信仰者だと知られている人の前では祈らない方が不自然だし、同席する信徒の躓きになる。そうして「弱い人」つまり世俗的な人を愛して神に「造り上げ」よう。
私も正直そんなことできていない。だが主イエスは私たちを見つめて言われる。「わたしは信仰が無くならないようにあなたのために祈った。」(ルカ22:32)
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