「そばを通り過ぎようとされた」マルコ福音書6章48節 (B年特定12)

2015/07/26

 いつも疑問です。なぜ真っ直ぐに助けに来てくれないのか。イエスさま不在のまま、自分という船が人生の逆風に漕ぎ悩むのに、なぜそばを通り過ぎようとされたのか。
 だからといって真っ直ぐ目の前に来てくださっても、今日の弟子と同じく信じられずに「ぎゃー幽霊」と叫ぶでしょう。復活の主の時と同じく、信じない可能性があるのです。
 そばを通り過ぎて正面ではなく後ろ姿を見せる仕草は、実は旧約の主なる神ヤーウェの仕草だそうです。モーセに、エリヤに、主なる神はそばを通り過ぎて後ろ姿を見せました。人は弱い存在だから神の顔を正面から見れば死んでしまうのです。(出33.22)
 後ろ姿を見せるのはまた、弟子らに自分の道に続くよう促す意味もあります。十字架の道、苦しみを経て死から命へと導かれる解放の道を、お前も後から付いて来い、と。
 しかしその前に、怯える弟子にイエスさまは旧約の神を超える優しさを示します。「安心しろわたしだ」と船に正面から乗り込まれたのです。風は鎮まり、弟子は驚きます。私たち弟子は、神の顔を見ても死ななかった者なのです。そして主イエス様の後ろ姿を見つめて、その道を付いて行く者です。

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聖公会京都教区の司祭です。大津聖マリア教会勤務です。うつ当事者として自助グループ「マ・カタリーナ」の世話人もしています。リンクをご覧ください。

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