ラザロの惨めさ……金持ちの門前で物乞いをし、残飯を求めるが、代わりに犬にできものを舐められる。どんなに貧しくても、私よりもまだラザロの方が貧しく惨めだ。
門の中の金持ちは、ラザロの惨めさを心にも留めず遊び暮らす。どれだけ貧しくても、ラザロから見れば私も無慈悲な金持ちの一人だ。
そして両者は死に、ラザロは天の祝宴で憩い、金持ちは陰府の炎に苦しむ。そして金持ちは炎の中から父なる神の存在を表すアブラハムに祈り求める。「どうかラザロを地上に遣わして下さい。家族が陰府で苦しまないために、貧しい人に少しでも与えるように伝えて下さい」と。
これは死後の「あの世」の教えではない。神さまから見た「この世の本来の姿」の教えだ。イエスさまが祈ったのは「み心が天に行われるとおり、地にも行われるように」だ。神の支配が地上に実現することだ。貧しい人は養われ、慰められ、高められる。そして無慈悲な金持ちは奪われ、苦しめられ、低められる。
一人一人がかけがえのない存在として愛されるのが、神さまから見た、この世の本来の姿だ。だから「貧しい人を養い、慰め、高めなさい」と命じられる。そして皮肉にも、陰府から金持ちが願ったのもまた、この願いが地上の人々に届くことだ。
その手段が復活者だ。死んで陰府に降り復活したお方、「陰府がえった」イエスさまは私たちに出会い、全く変えられる。「わたしはあなたと共にいて、この世の本来の姿を実現し始めた。だからあなたも貧しい人に与えなさい。」
勝手な解釈で、この命令から逃げたくない。逃げられない。少しずつ、できる範囲でいい。貧しい人を養い、慰め、高め、神さまのみ心を地上に実現しよう。天に行われるとおり。