「どうしようか、そうだこうしよう。」 (ルカ16:3、特定26)
躓きやすい譬えだ。悪い番頭が主人の財産を「無駄遣い」し、それがバレた。そこで番頭は自分の保身、という不純な動機から知恵を尽くした。「どうしようか…こうしよう、追い出されても自分を迎えてくれる家を作ろう」。そして人々の主人に対する借用書を勝手に書き換えて負債を減らし、恩を売ったのだ。
本来はこんな悪人は審かれるべきだ。だが主人はその「賢い(抜け目のない)やり方をほめた」(16:8)。不純な動機は問わずに良しとした。おそらく主人は番頭をクビにしなかっただろう。なぜか。
それは直前の「放蕩息子の譬え」と重ねて読むと分かる。放蕩息子もまた父の財産を「無駄遣い」し、遠い国で飢えに苦しむ。そこで「我に帰り」、腹を満たすという不純な動機から知恵を尽くした。「そうだ、父の家にはパンが沢山ある。使用人になれば食べさせてもらえる」と。「父への謝罪」は後付けだ。
本来はこんなドラ息子は審かれるべきだ。門前払いだ。だが父は息子の姿を見るや否や、深く憐れんで家に迎え入れた。父は息子の不純な動機を問わず、良しとしたのだ。
悪い番頭は自分が生き残るために借金を許して回り、放蕩息子は父の家のパンを求めた。しかしその不純な動機は問われなかった。そして器の大きい愛に面したのだ。
私たちは純粋に神さまのために神さまを求めるべきだ。だが不純にも自分の救いのために神さまを求めても良い。神さまは動機を問わず愛して下さる。そして不純な心を、純粋な心に変えられる。
賢く、知恵を尽くして救いを求めよう。動機は不純でもいい。ただ必死に急いで救いを求めよう。そうすれば神さまは必ずほめてくださる。神さまがあなたを愛する器は無限に大きいのだから。