岩になる
「あなたは岩、わたしはこの岩の上に教会を建てる」 (マタ16:18)
「嬉しい! 俺が教会の土台になる! 主が教えた『賢い人が家の土台とする岩』になるなんて!」(7:24)
もちろんシモンは何も分かっていなかった。主の十字架も、主を裏切って泣く夜も、主の復活と赦しも、また自分の殉教する運命も。だがそれでもシモンは、このとき選ばれた喜びを生涯忘れなかった。
私も教会に来て「このために人生を使って良い」と思えた日、とても嬉しかった。皆さんも教会で居場所と、そして出番を得た喜びを、よくご存知だろう。
主はアブラムを「アブラハム(多くの民の父)」と呼び、世界の祝福の源とした。同様にシモンを「ペトロ(岩)」と呼び、教会を建てられた。天と地を結ぶエルサレム神殿の土台はシオンの岩山だ。しかし新しく天と地を結ぶ神殿、キリストの教会の土台はこの一人の赦された罪人、「岩」と呼ばれたシモンなのだ。
シモンは自分の弱さと裏切りを体験するたび「それでも主は、こんな自分を教会の岩とされる」と、疑いつつも、信じ抜いた。最初に「お前が岩だ」と言われた喜びを何度挫折しても忘れなかった。そうして主はペトロを、愛と赦しを深く知る土台へと変えた。
私たち教会は「それでも岩にしてくださる」と信じたシモンの末裔だ。だから挫折し失敗するたび最初に「お前を岩にする」と呼ばれた喜びを想い出そう。
この世の波風に削られ、ぐらついても、主の愛と赦しが覆う限り「陰府の力も対抗できない」(18)。