あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい (ヨハネ20.27)
「トマス」カール・ブロッホ,1881 |
トマスは願っていました。試してもいました。見せて欲しい。感じさせて欲しい。体験させて欲しい。「あなたは本当に復活して今も生きているのですか?わたしの裏切りを赦して下さったのですか? 今もなお、愛して下さるのですか?」
わたしたちは願い、試します。病気に伏す日々には「少しでいいから癒しの兆しを見せて欲しい」そう願う。でなきゃ信じない、、、。人間関係でも「あなたの愛を感じさせて」とねだります。子供は上手ですね。「抱っこして、、、」と一言いえばいい。そうすれば体全体で親の愛情を感じることができ。でも大人は「抱っこして」とは言えないので、いろんな形で相手にしるしを求めます。相手の誠意を、愛情を、覚悟を、赦しを。
復活体験をねだるトマスに、復活後第二主日に現れたイエス様は、自分自身を裸のまま差し出しました。そして招くのです。「さぁトマスよ、好きなだけ私の傷を触りなさい。触って、感じて、体験しなさい。そして信じる人になってくれ。そのためなら俺はなんでもする」と。
このイエスの姿を見たトマスは、体には触れず、その場で福音書の核心を告白します。「わたしの主、わたしの神」。なぜなら「お前が信じるためなら、わたしは自分自身を与えよう。傷や弱さも全て裸で差し出そう」とする姿は、十字架刑で自分の命を与える姿を思い起こさせたから。自分を差し出し傷ついて死に、しかし復活して赦しを与える。それこそが神の姿なんだと。