2026年9月6日聖霊降臨後第15主日(特18)
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| The Man of Sorrows Michele Giambono. Italian ca. 1430 |
教会には色んな人がいて神の家族です。十二使徒や初代教会の時代から、対立や傷つけ合いはありました。イエスさまもパウロも「隣人を自分のように愛しなさい」と愛を説き続けたのは、現実はそうではなかったからです。(ロマ13:9)
そこで福音書には「あなたに対して罪を犯した人」に対する知恵があります。(18:15)それはいきなり「陪餐停止」の懲罰ではなく、まずは一対一で話すこと。それがダメなら二、三人で話す。それがダメなら教会に伝え、それがダメなら陪餐停止にしなさい、ということです。
これは加害者に対する驚くべき配慮です。普通なら相手を責めるか、復讐したくなると思います。しかし神の教会が目指すのは「懲罰」ではなく、相手が悔い改めて神に立ち帰り、イエスさまが現れるところの「心を合わせる二人または三人」です。(18:20)罪人への対応すら、憎しみではなく、愛なのです。
この配慮は単なる世間一般の処世術ではありません。神の思いに基づいています。エゼキエルは偶像礼拝によって国が滅んでいく時に民の「見張り」となり、神の愛に基づいて悔い改めを説きました。「私は悪しき者の死を決して喜ばない。…立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。あなたがどうして死んでよいだろうか。」(33:11)悪を働いた民は、何の猶予もなく裁かれるのではなく、神に立ち帰るチャンスが与えられます。自ら選べば、神の命に生かされる道が残っているのです。
罪人を愛して神に立ち帰らせる手段は「私は傷いた」と相手に伝えることです。一人で相手の所に行くのはとても勇気がいることですし、余計に傷つくのなら避けるべきです。ですが自分の弱さと傷を相手に見せて初めて、相手は自分の罪を知り後悔できるのです。
エゼキエル書では神が民に自らの傷と悲しみを知らせます。「私はあなたがたの霊的な死を喜んでいない。むしろ悲しい」と。神の「悲しみ」を知って初めて人は悟ります。
イエスさまの十字架は、私達の悪を受けた神さまの傷です。「私は傷ついた。私は悲しい。神に帰れ」と訴えています。私たちはその傷を見て神に帰り、愛の似姿に変えられ、愛の教会と愛の社会を作るように呼びかけられているのです。
「悲しみの人」は訴えられます。「私は傷ついた。悲しい。それでもあなたを愛している。神に帰れ。私に返れ。対立するなどつまらない。愛の人に、愛の教会に、なれ。」

