問題は「働きの多い少ない」ではありません。それは「男女の境界線」です。2000年前の男尊女卑の社会では、男と女の家での居場所には明確な境界線がありました。客をもてなす表の部屋で客人と話をするのは男性でした。女性の居場所は裏方の台所です。旧約聖書でも、表で天使と会話するのはアブラハムで、サラは裏でパンと仔牛料理を作っています。
しかしイエスさまを迎えた日スキャンダルが起きました。マルタの妹マリアがイエスさまの足元での言葉に聞き入っていたのです。これはぼーっと聞いていることではありません。将来イエスさまのあとを継いで自分も教師になるために学ぶことです。マリアは女性の境界線を勇気を出して破り、男性にしかなれない使徒の一人になろうとしました。女も男も使用人も怒り心頭。でもマリアはそれがただ一つだけの大切なことだと確信したのです。
復活の女性使徒
ですがイエスさまはもっとスキャンダラスなことに、マリアの勇気を良しとされました。悪しき境界線に縛られている人が、勇気を出して一線を越え、私の言葉に聞き入って欲しい。そして自分のあとを継いで神の支配を伝える人になってほしいと。そしてマルタの名を二度も呼んで愛し招かれました。「あなたも人の作った境界線を越えて私の心、神の国に聞き入って欲しい。そして私が復活したらあなたも神の愛の支配を伝える人になって欲しい」と。
そして実際にイエスさまが十字架刑で殺された日、男の使徒らは逃げ出しましたが、女性たちは先生の死を確かに見つめ、確かに埋葬しました。そして天使が主の復活を一番に告げたのはこの女性たちであり、男性の使徒たちに知らせに走ったのもこの女性たちでした。この「復活の女性使徒」の中にマリアも、名を呼ばれたマルタも居たのだと私は思います。
境界線を滅ぼす十字架
イエスさまの前では誰でも等しく、どんな境界線をも越えて神の愛を聞くことができます。男も女も、働きの多い少ないも、善人も罪人も、障害者も健常者も、関係ない。十字架で神は悪しき境界線を滅ぼし、復活によって隔てのない神の国を始められたのです。
さぁ、私たちもこの食卓で、イエスさまを心の家に迎えましょう。そしてあらゆる境界線を越えてイエスさまに聞き入りましょう。それがただ一つだけ必要なもてなしです。
マルタに自分の名を替えて主のみ声を聞きましょう。「マルタ、マルタ、必要なことはただ一つだけだよ。人の作った境界線を越えて来なさい。私の足元に来なさい。勇気をもって」。