「自分の持ち物を売り払って施しなさい」
では私たちの献金はどう違うのか。要求のように感じる時もある。
キリスト教会、共有する共同体
聖書の施し(献金)の最終目標は「貧しい人との共有」だ。イエスさまは「貧しい人は幸いである」(6:20)と教えた。初代教会は「すべての物を共有し…必要に応じて分け合った。」(使2:44)。そしてパウロは、エルサレムの「聖なる者たちの中の貧しい人々」、つまり貧しい信徒・聖職のために献金を集めて届けた(ロマ15:26)。
財産の放棄(捨てる)と、共有(分かち合う)とは違う。財産の完全な放棄は経済的破綻をよぶ。しかし財産の共有は人を破綻させず相手と共に生きる愛の生き方だ。神が願うのは「分かち合う愛の道」であり、誰かの経済的破綻によって教会が裕福になることではない。ここでの「持ち物を売り払う」は経済的破綻するかしないではなく、誇張表現。各々の経済力に応じて痛みを負い合い、分かち合うのだ。
当然、理想と現実は違う。教会内にも貧富の差があり、貧しい人に献金が届かない。金銭に執着する聖職もいる。教会が財産を聖職と共有するのは「共有する教会」になるため。献金の最終目的は「裕福な教会」ではなく「小さな群れ」でも「共有する教会」だ。
無償で分け与える神さま
だからイエスさまは言う。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」(12:32) 神は「要求し、奪う神」ではない。分け与える神さまだ。「神の国をくださる」とは「国」を与えて「ハイ、サヨナラ」と遠くへ消えるのではない。神は近い。ご自分を私たちと分かち合うということは、私たちは神の中に誘われ、神に与り、神の命に参加し、神の分かち合いの一部となる。
神が共有してくださる神だから、初代教会は共有を実践したのだ。
分かち合うイエスさま
「分かち合う神」これが頂点に達したのがイエスさまだ。十字架だけを見たら「イエスさまは自分を捨てて」死んだ、となる。(これを献金教育に悪用してはならない) イエスさまは復活し、神の国の新しい命を共有されるのだ。死を超えたご自分の命を分かち合われる。分かち合うことで神の命は無くならない。神は人と新しい命を分かち合い、人は神の命を輝かせ、神の分かち合いに参加する。
「さぁわたしの命を分かち合おう。そして分かち合う人になろう」