イエスさまの苦しい死から復活への旅は洗礼で始まった。川に沈んで自分に死に、「あなたはわたしの愛する子」の愛の宣言を聞く。荒れ野へ送り出したのはこの愛の霊だ(マルコ1:12)。だがそこで天使に支えられ、サタンと野獣に勝つ。野獣は私たちに働くこの世の悪い力の象徴。そして荒れ野の勝利は、復活の勝利の予兆だ。
大斎の旅では決して目的地を見失ってはいけない。目的地は「克己」の自己満足ではない。キリストの復活によるすべての悪い力、罪と死の力に対する勝利だ。
古代の信仰者はキリストの「陰府(よみ)降り、地獄降り」を信じた。使徒信経は「よみに降り」と信じ、1ペテロ3:19もキリストが「捕われていた霊たち」つまり死者の「ところへ行って宣教された」と記す。死んで復活する間、主は死者の世界まで行って復活の命の勝利を宣言した。現代人には未熟な神話に聞こえる。だがその本質はキリストの勝利への信仰だ。主イエスさまによる復活の命の勝利宣言は、生死の境まで超えて広がる大きいものだ。なんと力強いことか。弱い自分にもこの勝利の力が必ず働くのだ。
主は地獄にまで命を宣言しにいくお方。ならば弱い私の地獄にも、この世のどんな地獄にも、ましてやコロナ禍の暗い「陰府」にも、必ず命を宣言しておられる。
神の勝利を見つめて、死から命への旅をはじめよう。
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「キリストによる地獄の略奪(陰府降り)」フェラポントフ修道院のイコン、ロシア国立美術館蔵