
今週はまた、世界自殺予防週間です。世間には「何のために生きているのか」分からず、死にたい程に苦しい人がいる。その人達にとって、生きる意味とは、かけがえのない宝となります。
「苦労が無くなることはないけど」と前置きして私も出来るだけ真摯に答えました。「もう何のために生きてるのかを問う必要なくなったんや。だって、もう既に自分が捉えられたから。神とか仏とか幸せとかいう存在そのものに。」彼は少し戸惑った後に「深いな、、、」とつぶやきました。
今日の御言葉こそキリスト者の幸せを表します。生きる意味が与えられている。主のために生き、主のために死ぬ。生まれてから死ぬまでの全瞬間を私たちは主人、イエス様のために生きることがゆるされている。
私たちは人間関係をも主のために生きます。人は皆、主に赦された罪人同士。イエス様は私の罪をも、憎いあの敵の罪をも引き受けて死なれた。だから主のために人を赦す生き方を選ぶ。悔い改める人に対して何回赦すべきか、という限度は私個人の基準で、主イエスの内に赦しの限度はない。赦しの主、この人のために生きることこそ私たちの幸せであり、生きる意味です。