「招待の日曜日」発案者のハーヴィーさんは、よく馬鹿にされたそうだ。「そんな伝道は効果がない。どうせ人は来ない。押し付けだ」と。
58年間の捕囚生活でバビロンに慣れ切った民も、変化をイヤがった。預言者は「この生活を捨てて、荒地を旅して故郷に帰り、主の神殿を再建する時が来た」と預言した。だが民は拒み馬鹿にした。「難しいことは諦めよう。この慣れた異教徒の地で、妥協して生活すればいいじゃないか」。そして自分たちを導き帰ろうとする預言者を馬鹿にし、嘲り、唾を吐いた。
しかしそれでも預言者は侮辱を真に受けて心が折れることはない。主なる神はいつも自分を義しい者と認めてくださるからだ。神を根拠とした自己肯定は、どんな屈辱をも受け流す。
どれだけ嘲られ唾を吐かれても、主のしもべは攻撃を受け止めて、民を故郷へ連れ帰ろうとする。イエスさまはこの「主のしもべ」を生き、全人類を救いの故郷に導き帰る。あとは捕囚の地の私たちがその背中を追うかどうかだ。
どれだけ嘲られ唾を吐かれても、主のしもべは攻撃を受け止めて、民を故郷へ連れ帰ろうとする。イエスさまはこの「主のしもべ」を生き、全人類を救いの故郷に導き帰る。あとは捕囚の地の私たちがその背中を追うかどうかだ。
「自分を捨て十字架を背負う」とは過ちを引きずることでも自己嫌悪でもない。「変化はイヤだ」と馬鹿にしてきた道を受け入れ、主のしもべに導かれ、魂の故郷に帰っていくことだ。