終活も終末医療も「死を受け容れて初めて生が輝く」と説く。一理ある。限界を知るのだ。
知恵の書も初めは似ている。「死を仲間と見なし、目の前の良いものを楽しみ、青春の情熱を燃やし、香油を身につけ、花を楽しめ。」ただこれらは信仰を妥協させる「神を信じない人」のこの世的な享楽主義に通じる。楽しむには力が必要で、弱さは無価値。都合の悪い信仰は追いやれ。この辺からは暴力の臭いがする。
聖書の信仰は真逆だ。「死を仲間と見なすな。敵だ。人は神の似姿として本来、死なない存在として創られた。死は悪魔が持ち込んだ。キリストの死と復活は、死に勝つ命を与える」と。
正直、日本人の感性では受け入れ難いが、聖書の神は死と戦うお方だ。死の向こう側に復活の命がなければ、生は本当に輝くことはできない。神はそこまで徹底して、小さくされた命の側に立ち、死に負けない命を与えるお方だ。
今日、当教会に入籍する姉妹の教名は「ベタニアのマリア」。主に聴き入り、弟の甦りを見た彼女は、この世の価値観が引っくり返されて高価な香油を「葬り」として主に注ぐ。(ヨハネ12) 死を「仲間と見なさず」、命がけで死と戦い抜く主の十字架と復活を感謝し、敬うのだ。