ある父親は「教会の繋がりだから」という理由で、一人の信徒を息子の結婚披露宴に招待ました。「祝い金も要らないから」と言って。しかし来た客は食卓のご馳走をたいらげることに終始し「おめでとう」も言わずに帰ったのです。ただ喜び祝う、という心の礼服を着て欲しかった、そう言って父親は怒りました。
婚宴の譬えでは、急に呼ばれた貧しい人でも礼服は身にまとえる、という前提です。礼服を着る姿勢、と理解すれば良いでしょう。
神の婚宴に入った私は礼服を着ているか。着ていないなら外の暗闇へ出される。都合の悪い聖書の言葉は無視したくなります。「既に」救われたはずの信仰者は悪夢にうなされます。こんなに厳しいのは本当にイエスの神なのか。
しかしこの厳しさこそ「変わってほしい」という神の願いなのです。神はそのままの私たちを愛されますが、罪人のままでいいとは願われません。実際に変わって欲しい。礼服をまとい、心を目に見える形に表して欲しい。
礼服はそれぞれ寸法もデザインも違います。しかしそれを着る行いは、喜び祝う心を見える形に表す行いです。婚宴に招かれた喜びを。
あなたはどんな礼服を身にまとって神の婚宴へ行きますか。