健康的な「誇り」は良いのです。人に対して自慢せず、神にそれを感謝すれば良いのです。
パウロが問題とするのは、自分の行いや生き方を他人に対して自慢して自分の価値を得ようとすることです。本来なら神の恵みの祝福を、自分の所有物とみなして誇り高ぶる。この世ではよくある光景です。私達の信仰もまた、この自画自賛の罠にはまっていないでしょうか。「誰々と違って信仰生活を守ってきた自分は偉い。正しい。評価されるべきだ」と。
それに対してパウロは「誇りは、主イエスの十字架だけ」と宣言します。十字架というのは死刑の道具です。苦しい死です。それを誇るのためには、よほどその意味を深く自分のものとして理解していたはずです。後には、そのために殉教死するほどの覚悟なのです。
その意味とは、神の愛です。罪と死の力に支配されている人間を救おうと、その罪と死を、神がその身に担って死んでくださった、その愛です。だからこの世的な全ての行為や価値は死んだ。無に帰された。そしてキリスト共に、自分は死に、キリスト共に新しく創造される。
そう生きるキリスト者は人生の全ての瞬間、全ての祝福のうちで、主の十字架を誇るのです。十字架の主の愛に全てを感謝するのです。