「何様のつもり?。まるでキリストの働きが足りないように言って!!」と叱りたくなるような使徒書の言葉です。しかしこれは「御言葉を伝える伝道者は、その内容、つまり、十字架のイエス様と同じように苦しむものだ」という意味です。だから続けてこう言います「神は、御言葉をあなた方に余すところなく伝える、という務めをわたしにお与えになった」と。
御言葉に聴いて、御言葉に仕える信仰者は、周りに誤解されたり嫌われたり苦しんだりする可能性があります。それは神の言であるキリストに聴き入っていたマリアが、お姉さんマルタから叱られるのと似ています。神の御言葉は、この世の忙しさや計算や思い悩みとは全く次元から、語りかけてくるからです。それでイエス様はマルタにも御言葉に聞く信仰者になってほしくて、語りかけたのでしょう。「思い悩むのではなく、御言葉に聴き入ることを選びなさい。それから、人を愛する活動に励みなさい」と。
マリアはパウロと同じように御言葉に聴き入りました。そして復活の救いを伝える宣教者となったのです。どうかわたしたちが、何よりも先に「神が語りかけてくださる」ことから生きていく力を得られますように。どうか苦しみも誤解も恐れず神の言葉、イエス様ご自身の存在に聴き入り、人に伝えることができますように。