「自分の十字架を担う」マタイ福音書10章38節
2023年7月2日 聖霊降臨後第5主日 (A年特定8)
救世主ハリストス大聖堂、正面壁、モスクワ、19世紀.
世間一般的に「十字架を背負う」とは「生涯消えない罪や苦しみ」という意味です。死亡事故を起こした罪や、津波で家族を死なせてしまった後悔は、「一生背負っていかねばならない私の十字架だ」と。
しかし復活信仰によって書かれた聖書では、十字架は常に復活と表裏一体です。だから十字架を担うことは、復活をも担うことです。古い自分に死ぬだけではなく新しい自分に生きることです。十字架のイエスさまと一緒になって罪を犯す自分に死に、復活したイエスさまと一緒になって新しく生きていく決心です。自分のためではなく、神のために生きる選択です。
だからこの言葉の直前の「敵対」は「むやみに信仰を持たない家族に敵対せよ」ではありません。そうではなくて、「あなたが」自分の十字架と復活を選び取るか、選び取らないかには、絶対的な差がある。他の人は関係ない。家族でさえ代わることはできない。何よりも先に「あなたが」懸命に十字架と復活を選び取れ、と言いたいのです。
だから「私のために命を失う者はそれを得る」のです(10:39)。主の十字架と共に古い自分を失った者は、主の復活に与かって新しい自分を得るのです。
パウロも訴えます。「罪に対しては死んだ者、神に対してはキリストイエスにあって生きている者と思いなさい。」(ローマ6・11) 神さまご自身が私たちを愛して、私たちの罪を引き受けて死なれた。そして私たちを復活の命の中に受け入れてくださった。だからイエスさまに結ばれたあなたも、自分の罪に死に、神に生きることを選び取れ」と。
ただし自分が人に付けた傷は残ります。新しく生きるとは、罪を忘れて自分だけ自由になることではありません。どんな罪や過去をも全てを受け止め、しかし新しい心で、愛し直すことです。愛し、謝罪し、償い、責任を取る。そして償いきれない罪をも、常に自分に死んで神に生きることで、償い続けていく。人への償いもまた、十字架と復活を選び取ることで続けていけるのです。自分が傷つけた人の前で、私たちは何度も死に、そして何度も生き返って償い続けていくのです。
西洋美術で、復活のイエスさまが掲げる十字架には、旗がついています。これは罪と死に勝った神さまの軍旗です。私たちはこの軍旗に従う兵士です。そしてこの方の後についていく私たち自身がかかげて進む十字架もまた、復活の勝利の軍旗なのです。
自分が担う十字架は復活の軍旗であると信じ、人を愛し直す新しい自分、復活の命に生かされる自分を選び取りましょう。
「十字架と復活の旗を取って、私についてきなさい。私たちは勝った。罪と死の古い私たちに死んで、愛と命の新しい私たちを生きよう。」