表紙絵は「もてなし」の場面。アブラハムとサラの天幕に三人の天使が来てくれた。その宿ってくださった喜びを表す。この天幕は、出エジプトの荒れ野の天幕、そしてソロモン王の神殿へと受け継がれ、そして新しい契約では教会自体が、イエスさまの聖霊の宿る神殿とされる。教会は「聖なる神殿」、「神の住まい」、神の居場所だ(21-22)。
神の神殿は建物ではない。神の民の共同体だ。どれだけ立派な礼拝堂があっても礼拝がなければただの建物だ。祈る会衆がいて初めて建物は喜びに溢れる。神が存在し、神が現れ、神がご自分の居場所とされるのは人々の心だ。礼拝する共同体だ。愛し合う人間関係だ。神がいるのは、祈りと信仰と賛美を捧げる兄弟姉妹の内だ。
会衆席の隣の人、主の食卓を囲む兄弟姉妹の顔を見てみよう。それはイエスさまによって美しくされた「神のかたち」だ。その人の信仰と希望と愛の内に神が現れる。
もちろん教会には色んな人がいる。昔ならイスラエル人も異邦人も、今なら幼児洗礼の人も成人洗礼の人も、または善人も悪人もいる。しかしこの神殿はバラバラではない。かなめ石、頭石、または梁として、十字架に付けられたイエスさまが全ての人の重さを受け止めて一つにまとめている。罪深さと死の力の現れは、十字架の主イエスが現れる機会となるためだ。イエスさまが頭である神殿に神は喜んで宿ってくださる。
全てを貫く神の願い。「私はあなた方の内に宿りたい。私と一緒になって喜び、感謝と賛美を捧げようよ。」