私は見かけによらず虚弱だ。団塊の世代の父には「そんな軟弱でどうする!?」と激励される。もっと強くバリバリ働きたいと願うが、持病には逆らえない。
「病気、患い」をギリシャ語は「弱さ、軟弱さ」と表現する。普通、病気は外から体を攻撃する「強くて悪い力」だと思っている。しかしそれが自分ごとになると、 自分の中からどうしても出ていかない「軟弱さ」に感じられる。それは老いや死と一体であり、精神的には意志の軟弱さや神や人に対する不誠実さにも繋がる。
聖書日課の主題は、神の民イスラエルの選びであり、十二使徒の選びだ。勇ましい。主が使徒らに死と病気に勝つ強い力を授け、収穫へと派遣する。
しかしこの福音宣教の根底には「弱さ」に対する神の憐みが流れている。 イスラエルが選ばれたのは「どの民より貧弱であった」から (申7:7)。また、超人的な宣教師だったパウロは、弱さこそ福音を知る鍵だと教えた。「キリストは私たちがまだ弱かった頃、不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5:6)
イエスさまは「あらゆる軟弱さを癒され」(9:35)、「弱り果てた群衆を深く憐れむ」(9:36)。そして自ら一人の弱い人として死に、復活して人を癒し、強くし、新しくする。復活の主の存在を知らせるのは、その手の傷跡だ。
「わたしはあなたの弱さを選んだ。憐みの福音はそこにある。だからあなたは、他人の弱さに深く憐みなさい。そこがわたしが共に収穫する畑だ。」