
坐禅の実践でさえ「神秘体験を求めるな、今ここに在る自分を生きよ」と教える。まして、見えない神が見える人となった救いを信じる受肉信仰は、神をあの世だけに求め、この世で神を見ない、愛さない、知らないはずがない。
この誤った聖霊理解をヨハネの手紙1は正す。「見に見える兄妹を愛さない者は、目に見えない神を愛することができない。」(4.20)本当の聖霊が働いて神が現れるのは、見える世界から離れてではなく、この世の具体的な兄妹を「愛しあう」とき。(3.24)見える兄妹を愛し合う、これこそ「神から受けた掟だ。」(4.21)
この愛は、好き嫌いの感情ではない。神が現れる道具だ。イエスさまは、清く正しい理想的な私たちではなく、汚くずるい所が見える現実的な私たちを愛された。だから同じように私たちが愛し合う所、そこに神が現れる。