
このように信仰と不信感が混ざったまま、私は何年も受洗を諦めていました。そんな私を勇気づけたのが今日のみ言葉です。
この父親は弟子達に息子の癒しを求めたのに失敗しました。その失敗体験から「おできるなら」という一抹の不信感をイエスさまの前で抱いてしまう。その不信感を主は叱り飛ばしたのです。「わたしを信じる前に、できれば、と言うか!」。 そして、今こそ息子の命が掛かっている、と悟った父親は自分の不信感を恥じてすぐ叫びます。「信じます!信じ切れない私をお助けください。」
信仰は自分に対してどこまでも誠実です。絶対的な信頼を誓いつつ、それでも信じ切れずに裏切ってしまう不信仰を自分の内に認めて祈る。誠実な人には信仰と不信仰はいつも混在しています。イエス様もそうでした。誠実に丁寧に不信仰を祈りにする。それこそ不信仰な人間の、信仰の道です。